三たび ガイアシンフォニー
ガイアシンフォニー第3番は「故 星野道夫氏に捧ぐ」とされています。第3番の重要な出演予定者であった星野道夫氏は、1996年8月 ロシアのカムチャッカでテレビ番組の撮影中、熊に襲われて死亡します。
映画の冒頭で生前の星野氏は語っています。「こんな言い方をすると誤解されるかも知れないけれど、時折新聞で人が熊に殺られた、という記事をみたりすると、ある意味ホッとする部分もあるんです。まだ熊に人間が殺される自然が残っているという事なんです。」
それを見た瞬間、私は「ああ星野さんはみずから熊に殺されたのではないか」と直感しました。彼に自殺願望があったとかそういう意味ではなく。そしてその状況を「スタッフやガイドが叫び声を聴いて外に出たとき、すでに巨大な灰色熊が星野を抱いて森の闇に連れ去ろうとしており、どうすることもできなかった」と、龍村仁監督著の魂の旅には書かれています。この本は映画の完成から何年も後に出版されており、今更映画の宣伝にも影響されないでしょうが、世に出さずにはおられなかった監督の「思い」が伝わってきます。
「ぼくたちの中に眠っている1万年前の記憶が甦ってくるような映画にしたいね」
「21世紀にふさわしいぼくたちの時代の神話を命がけで築かなければならないと思ってるんだ。」と、
つい二週間前話した、星野道夫というかけがえのない人を突然失った混乱の中で監督は、撮影を予定通り進めなくてはならなくなります。
「見えない星野道夫を撮る」「聞こえない星野道夫の声を聞く」
星野さんと関わった人々の中で織り成される「偶然という必然」のなかで人と人、事象と事象、心と心とが繋がっていきます。あたかも星野さんの魂が導いてくれるかのように、その度に監督は星野さんの「存在」を感じます。
アラスカに住むクリンギットインディアンの神話の語り部ボブ・サムの「魂を語ることを怖るるなかれ」の言葉に監督は何度も勇気づけられています。そして、彼の「ある意味で彼は、自らこの道を選んだのだ」という言葉に私も同じ思いを抱きました。
撮影を押し進めるうちに起こる「神業」としか思えない「偶然の一致」について監督はこう書いています。「神業」は神から直接人に与えられるのではなく、それぞれの場で「人業」を尽くしているさまざまな人々の「意識せぬ繋がり」によって当然起こるのではないだろうか。ただ重要なのは、人々の「動機」なのだ。「動機」の中に物欲・自己顕示欲などの利己的な心が働いていると、どこかで繋がりが途切れ、「神業」は消えてしまう。善き「動機」から、世界中の人々が人知れず行っている小さな決断や選択、それが何かのきっかけで「偶然」に繋がった時「神業」と見える事が起こるのだ。
私の周りでも最近は毎日のように「偶然という名の必然」が起こります。それはお客様からのフトした会話であったり、友人や書物からの情報であったりします。
最初は戸惑いましたが、その「偶然」がいつも良い方向に私を導いてくれるので感謝し、逆らわず受け入れています。
そして、ガイアシンフォニーに関しても私にもささやかな偶然が・・今、ガイアシンフォニーに出合っている事自体が偶然(必然)ですが、
魂の旅の本編を開けた途端、1行目にこう書かれていたのです。
「1998年10月17日深夜 奈良県吉野郡の山深くにある天河大弁財天神社。」と、私は驚いて息を呑みました。天河神社の事は去年末から急に色々な人から話しがもたらされ、私も一度行ってみたいとは思いながら、未だに参拝できていないとても気になる場所でした。
第3番の映画にも直接関係のないはずの天河神社がなぜ?そしてこう続いています。「今なぜ、南東アラスカの先住民のクリンギット族のボブ・サムがここにいるのか、それが不思議でならなかった。」星野さんが亡くなって2年後にボブ・サムはこの地に立っているのです。
星野さんとボブ・サムを結びつけたのは、「ワタリガラスの神話」を持つ民族という事でしたが、この地こそ、神武天皇と「八咫烏伝説」の舞台となった土地だそうです。翌日ボブと訪れた熊野神社は八咫烏をご神体とする神社だそうです。後で分かった事ですが、龍村監督にとっても天河神社というのは、「地球交響曲」の制作という最初の船出のうえで、とても大きな意味がある場所だったそうです。私にとっても「天河神社」は行くべき「場所」のようです。もうひとつの偶然は、映画を見て星野さんの写真集や本も読みたいなぁと思って、大丸京都店を歩いていた時、「星野道夫展」の文字と2頭の白クマの写真が私の目に飛び込んできました。大丸神戸店2月6日~18日まで開催されるというチラシでした。場所は神戸ですが、そこも行くべき「場所」のようです。